他者に依存しない自立した幸福

24時間自分の生活の中で
起こるできことには
全部 原因がある。

結果には必ず原因がある。

でも
原因を特定するのは
多分できないでしょう。

原因探しは
時間の無駄になることが多い

特に不幸や不安の原因を探すのは止めよう
思い当たる原因はそれこそ無数にある。

生きてきた時間が長いほど
その原因と考えられるものは多くなる。

なぜそれが不幸の原因だと言えるのか?
どうやってそれが原因だって確証できるのか?
どうやって検証できるのか?

それを証明するためには
沢山の動かぬ証拠が必要となる。

気の遠くなるような
犯人探しに貴重な時間や労力を費やすよりも

遥かに
簡単なのが

幸福の原因を今すぐに創りだすことです!

不幸の原因を探し出して
不幸を解消しようとするよりも

幸福の原因を創って
不幸に上書きしていけばいいんです。

不幸の原因なんて分からなくても
今の幸福で上書きしちゃえば

そんな過去は
薄れてしまいます。

不幸の原因探し

それは無駄だから
止めましょう。

不幸の原因に意識を集中すればするほど
不幸は大きくなっていきます。

脳は観ているものを集めてきて、拡大して
なお且つ 増やしていくからです!!

これって
とっても大事なことなんです。

不幸の原因探しをして
不幸を解消しているつもりなのに
不幸がドンドン雪だるまのように大きくなっていきます。

もう不幸の雪崩現象MAXです。

それがお望みですか?
なら
おやんなさい。

不幸の原因さがしを。

幸福は選択です。

不幸も選択です。

どちらも
記憶の奥底にしまわれている
遠い過去の感情の記憶に過ぎません。

どっちを引っ張り出すかで
不幸を感じるのか?

幸福を感じるのかが決まります。

それを決めているのは
自分だってことを忘れないでね。

他の人のせいにしないでくださいね。
他の人が幸福や不幸の原因であるならば

あなたの人生は自分で自由にならないってことを
言っていると同じです。

他人に自分の人生の自由を与えてしまっていいんですか?

まあ
そうだとして
結局は自分で自分の人生を選んでるんですけどね。

選ぶことは自由だけど
選んだ結果は選べません。
これは真理です。
変えることの出来ない絶対のルールですから!
残念。

今 幸福を選びましょう!

そう 今笑いましょう。

声を上げて笑いましょう。

泣けるような状況であったとしても

鼻水を垂らしながら泣きながら
笑いましょう!

私も泣きたくなるときは
泣きながら笑っています!

だって
どんな時も
幸福でいることを私は選びたいから!

だから
どんな時も
私は幸福でいることができます。

父親の死に目に遇えなかった時も

小さい時に母親が死んでしまって
思い出を忘れてしまった時も
会いたくても遇えない母を思い出した時も

毎日15時間以上働き休みが全然なくて
救急車に何度も運ばれた時も

信頼していた人に裏切られたり

上場している会社だと思って信用したら
何千万も騙されたり

どん底の人を何人も助けたのに

自分がどん底の時には助けてはくれなかった

眠れない夜を送った時も

泣きながら笑っています。
鼻水を垂らしながら・・・・・・。

だから
どんな時でも
人は
幸福でいることは出来ると
自信を持って言えます。

だから
泣きたいような事があった時

泣きながら笑ってください。
鼻水を垂らしながら
大きな声で泣きながらも
大きな声で笑ってください!

そうすれば
あなたは決して不幸になることはありません。

幸福は与えられるものではありません
自分で選ぶものなんです。

幸せはどこからやってくるのか?

【幸せだから歌うのではなく、歌うから幸せになる】
ウィリアム・ジェームズ アメリカの心理学者

彼はとても高名な心理学者でしたが

「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」という事も
確か言っていたと思う。

大人は習慣の集大成でもあるので
沢山 泣いた経験や笑った経験があると思う。

なのでこの「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」
「幸せだから歌うのではなく、歌うから幸せになる。」というのが
ありうるのだと思う。

アファメーションとイメージトレーニングで感情をコントロールすることは
出来るけれど、このアクション(泣く・笑う)で感情を再現するということも
ありだと思う。

もちろん、泣くよりも笑うのが良いけれど
泣いた方がすっきりする事もあるので

泣いた後に笑うでもいいだろう。

怒ったり、泣いたりしても
最後は必ず笑って終わりにしたい。

だって
怒らないでいることは出来ないだろうし
泣かないでいることも出来ないだろうし
弱音を吐いたり、愚痴ったりしないことも出来ないだろう

だから
最後位は
ちょっと頑張って笑ってみる。

終わりよければ全てよし。

笑って許して貰おうじゃないの。

開き直りは駄目ですよ。
不完全な部分があるけど、頑張って成長するから
今は勘弁ね、というニュアンスでね。

弱い自分
そんな自分がいつか
笑顔だけでいられるまでは
泣いたり、わめいたりしてもいいと思います。

きっと
爺さんになっても

泣いたりわめいたりするかもしれないけれども・・・。
最後は笑えばいいじゃない?

駄目ですか?

【幸せだから歌うのではなく、歌うから幸せになる】

「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」

詳しい説明の動画

何かを叶えるために毎日生きているとしたら・・・・

何かを叶えるために毎日生きているとしたら・・・・

それだけで
その人は幸福です。

夢が叶うから幸福なのではなくて
叶える過程も幸福なんです。

夢見る途中が幸福なんです。

今 見る夢で幸福になれるから
だから
その夢は叶うのです。

今 幸福でなければ
夢が叶った後も
幸福になることはありません。

あなたを幸福にする夢を見ましょう!

ノウハウを使いこなすために

どんなノウハウであってもマインド・セット

※マインド‐セット(mind-set)
ものの見方。物事を判断したり行動したりする際に基準とする考え方。

ができていなければノウハウを使いこなすことはできない。

ノウハウはゴールに到達するための、手段・方法であって
ゴールには、自分自身が行動しなければ到達できない。

やる気になってから、やるというのでは

いつまでたってもゴールに到達できない。

だから、やる気に関係なくやる!というマイン・ドセットが必要だ。
やると決めてやるからこそ、やる気も出てくるというものだ。

→動画や他のコンテンツでも話していますが、作業興奮というやつです。

やる気があるから行動するのではなく、行動するからやる気が出てきます。

今、すでにゴールに立った自分をリアルにイメージすることができれば、ゴールを達成したセルフイメージがコンフォートゾーンとなります。

ゴールをすでに達成した自分、そういうセルフイメージを持つことができれば、

未だにゴールに未到達な自分が、既にゴールに到達しているセルフイメージに移動するようになる。

なぜなら、ゴールに既に到達しているセルフイメージがその人のコンフォートゾーンだから、ゴールに未達な自分がいるとするなら、ゴールにいる自己イメージに引っ張られるという訳。

→現実の自分にとってゴールはコンフォートゾーンの外なのだけれども

既にいま 現在ゴールに到達しているセルフイメージをリアルに持つことができれば ゴールを到達したセルフイメージがコンフォートゾーンとなる。

すでにゴールに到達しているセルフイメージをアリアリと描いていれば、そこが自分の居心地の良いコンフォートゾーンとなり、そうではないゴールに未到達な自分は居心地が悪い、だから早く居心地の良いゴールに向かって、脳がゴールまでナビゲートするようになる。

カーナビと同じ理屈だ。

ゴールに到達しているセルフイメージが目的地

未だにゴールに未達な自分は現在地。

セルフイメージの世界では既にゴールに到達している。

行動することによってでしか、現在位置を確認することができない。

だから、行動することがとても重要で大事な理由。

行動することで、ゴールまでの距離、ギャップが分かる。
後は 脳がそのギャップを埋めるための具体的な手段・方法を探してくる。

その際、ゴール側に立っている必要がある。

ゴール側に立っているとは、ゴールが自分のコンフォートゾーンになっているということ。既にゴールに到達しているセルフイメージを持っているということ。

ゴールから現在位置に向かって手段・方法を探すほうが
格段に早いのです。

ゴールの位置から見える世界からは
ゴール至る沢山の道が見えます。

現在位置からゴールに至る道は何本かしか見えない。

本当は、沢山のゴールに至る道があるのに・・・・。

だから、ゴールに立って今の自分を眺めよう

そうすれば、自ずと進むべき 道が見えてくるようになります。

自分の意見や考えの違う人の中にあなたの成長の余地がある

私たちは
自分の意見や考えのある人を好む傾向がありますが

そういった
同じ意見や考えの中にばかりいる人たちは
同じコンフォートゾーンの中にいる人たちなんですね。

コンフォートゾーンとは、自分の居心地の良い場所/心の領域という意味です。

自分と同じ考えや意見の人と居るのは楽ですよね。

でも、それだけではいつまでも平行線。

ずっとこれから先も、今と同じまま。
何の発展もありません。

人は安定を求める欲求がある一方で、このままでは駄目だ、嫌だという
変化に対する欲求も持っています。

もっと今より 良くなりたいという欲求。

惰性だけで生きていると
変化の欲求を無視して、流されるままに過ごそうとしますが・・・

でも、変化の欲求は倦怠感や飽きとして現状から変わることを要求してきます。

しかし、現実は昨日とは違う毎日を望みながら、毎日同じ行動の繰り返しをしている
のです。

良くなりたい、でもなんかするのがメンドイというのがコンフォートゾーン。

変化を望みながらも、今までと同じ意見や考えのままで居るという矛盾に気が付きません。

おなじ事をしていたら、同じ結果しか来ないといことが分からないのですね。

今までと、違う結果が欲しければ違う考え、意見を自分でもたなければならないのです。

これが、コンフォートゾーンをズラす、移動させるという事です。

慣れ親しんだ考えや意見ではない、別の考えを持つこと。

自分の夢や願望も上の方のコンフォートゾーンにあるのですね。
夢や願望を達成するための具体的な手段・方法が見えないのは

このコンフォートゾーンが現状のままだからです。
夢や願望のある未来にコンフォートゾーンがないと見えないんですね。

違う意見や考えの中に、今まででは見えなかった可能性が見えるようになります。

コンフォートゾーンが動くことで、今まで見えなかったものが見えるようになるという事です。

今ある現状の世界が嫌なのであれば、今の自分の思考や習慣を変えて、コンフォートゾーンを動かす必要があります。

居心地の良い世界から、居心地の悪い世界に移動するのです。

居心地の悪い世界も、住み慣れてくれば、居心地の良い世界に変わります。

結果を出し続けるひとが他人の評価を気にしないのは何故か?

結果を出し続けるひとが他人の評価を気にしないのは何故か?
考えたことがありますか?

コンフォートゾーンというもののベースは
複数の構成要素から成り立っている

自分らしさの主な構成要素と言えば
セルフイメージをが上げられる。

セルフイメージとは
自分で自分の事をどう思っているか
という自分のイメージなのですが

このセルフイメージというのは
他人からの評価によって成り立っているんです。

これはどういう意味かと言うと

仮に生まれてから
自分ひとりだけでずっと生きていたとすると

自分が自分であるという認識は生まれないんです。

えっそうなの?

と思うのであれば

自分が何者であるか
説明してください。

きっと自分そのものを説明することは出来ない筈です。

何?
意味が分からない?

では
少し例を出すと

自分という人間を説明するには

まず
名前がありますが

名前はあなたそのものではありません。

住んでいる住所もあなたではありません。

勤めている会社
通っている学校を言っても

あなたが所属する組織ではあるかもしれませんが
あなた自身ではありません。

名前 住所 所属先を述べても
あなたを説明しきることはできません。

もし
寝ている間に
まったく言葉の通じることのない
原住民の中に置き去りにされたら
あなたは
自分を説明することはできないでしょう。

話が少しそれちゃいましたね。
戻しましょう。

セルフイメージがまさにそれで

自分だと思っているものが
名前や年齢や住んでいるところや
肩書きだったりするように
他のものに置き換えないと説明することができないのと
同じように・・・・

セルフイメージも
他の人からの自分への評価がベースになっています。

えっ

そう
自分のイメージが
他の人から見た自分

だってことなんです。

やれやれ

他人の評価が自分のイメージだって?

他人の評価という鏡を通して
自分というものを確認するしか
自分を確認する手だてがないというのが現状なんです。

なので
当然他人の評価というのは
自分の近しい人になるのですね。

親や兄弟、友人や学校の先生など
からの自分への評価が自分というイメージの基準となるのです。

この他人からの評価がセルフイメージとなり
自己イメージという設計図によって
自分らしさというコンフォートゾーンが出来上がっているのですね。

なので
コンフォートゾーンを上げるためには
セルフイメージを変える必要があります。

つまり、他人から受けた自分への評価を変えることで
セルフイメージを変え、コンフォートゾーンを変えることができるようになるのです。

結果を出し続けるひとが他人の評価を気にしないのは何故か?

というのは
他人の評価を自分のセルフイメージにしていないからなんですね。

とっても簡単な答えですね。

でも、これはある程度 のレベルに到達している人に言える事です。

結果を出し続ける人のセルフイメージは
自分で決めたゴールが評価基準になっています。

他人の評価基準ではないので
他の人の評価は一切気にならないのですね。

他の人の評価が気になる時点で
その人の価値基準は他人に握られているという事です。

他人の言葉によってコントロールされています。

これって洗脳というやつです。

セルフメージが他人からの評価のままの人は
全員 洗脳されているという事です。

その洗脳されていること自体に気が付いていないから
まあ洗脳されているのですけれど・・・・・・。

他人の評価基準が自分のセルフイメージという事は
自分の人生の地図が他人によって描かれているという事なんです。

他人が描いた人生の地図を歩んでいるという自覚がありますか?
普通はないですよね。

自分を変えたいという欲求は、他人に描かれた人生の地図を書き変えたいという無意識の働きでもあるのですね。

なので
自分が描いている
夢や願望も他人が描いた人生の地図である可能性はとても高いのですね。

本当に自分の夢や願望が心からやりたいことなのか
もう一度考えてみる必要があるかもしれません。

自分の夢や願望だと考えているものは
実は両親や他の誰かの望みであったりするかもしれないからです。

実話【思いこみ・レッテルという 評価が現実を変える証拠】

結果を出し続ける人のマインド・セット

同じようなチャンスがあっても
同じノウハウを手にしても

マインド・セットが違うと間違った選択をしてしまうんですね。

結果を出し続けるためのマインド・セットとは

結果につながるための選択だけをできるか?
ということに尽きます。

違う言葉で説明すると
うまくいくための選択だけをできるか?

という事です。

結果が出せない人は、結果につながらない選択をします。
結果が出せる人は、結果につながる選択をします。

うまくいかない人は、うまくいかない選択をするからうまくいかないし
うまくいく人は、うまくいく選択をするのでうまくいくのですね。

何を選ぶかで結果は決まるといつも書いているような結論になってしまって
ワンパターンな気もしますが、大切なことは繰り返し繰り返し違う言葉や表現で伝えた方が
良いと思うので しつこいですが何回も書きます。

マインド・セットは事前に自分の行動基準を決めてある決まりごとのようなものです。

先に決めてあるので、やることはきまっているため
チャッチャと迷わずやっちゃうんですね。

マインド・セットができていない人は、その都度、考えたり迷ったりしながらその場の状況や他人の意見に流されながら、上手くいくときもあるし、失敗する時もあります。

キチンとした自分の価値基準判断がないので、失敗の原因も、成功の原因も分かりません。

これでは、成功したことを再現することができません。

そんな成功は偶然だからです。

偶然は、たまたまそうなっただけのものです。
まぐれを当てにして挑戦するのは無謀です。

本当の成功は狙って出すものです。
狙って結果を出すことができるからこそ、何回も繰り返し
結果を出し続けることができるのですね。

再現性があるか、ないかの違いはそこにキチンとしたマインド・セットとノウハウがキッチリとあるかどうかという事です。

あたの成功には再現性がありますか?

セレンディピティ 意味のある偶然

偶然にもっとも程遠いと思われている
化学の分野で実は、沢山の偶然が世紀の発見につながっていたりします。

有名なのが リンゴが落ちるのを観て、引力の法則を発見したニュートン。

日本では、ノーベル化学賞を受賞した鈴木章北海道大名誉教授が
あるインタビューで語っていたのですが

数学を大学で学ぼうと思ったが、ある研究者がこれをやったら偶然あるものが見つかったとか。有機化学は面白いなあと。
思って有機化学を始めたそうです。

そんな鈴木教授が

「何もやらない人は(偶然に物事を発見する能力である)セレンディピティに接する機会はない。一生懸命やって、
真剣に新しいものを見つけようとやっている人には顔を出す。顔を出した上に、さらに幸運であればそれが成就する」

セレンディピティとは、失敗してもそこから見落としせずに学び取ることができれば成功に結びつくという、
一種のサクセスストーリーとして、また科学的な大発見をより身近なものとして説明するためのエピソードの一つとして語られることが多い。

別の言葉で説明すると、「偶然からモノを見つけだす能力」ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力と言えそうです。

これって
流れ星を観れたという偶然に出会って
流れ星が消える僅かな時間に願いを言いきれる人なんですね。

偶然に見える出来事も、見る人が見れば その偶然がきっかけになって脳内でスパークして
新しいものを生み出す事ができたりするのですね。

脳は探し物を探すのが得意ですから偶然と他の人から見えるような出来事も
必然と思ってしまうのですね。

だって前からそれを探していたのですから・・・・。

必然と思えるような出来事は、ずっと前から探していたもの、求めていたものなんですね。

求める人や探している人にとっては
それが意味のある偶然に思えてきて
それが必然だったと思えてしまうのですね。

脳には、自分にとって必要だ大切だ、重要だと思わないものは
見えませんからね。

幕末に黒船を見た殆どの日本人はそれが何であるか理解できなかったそうです。
ごく一部の人、龍馬などは この黒船を作った国が日本に来るのはドエライことになる。
そういう目で黒船を見た人たちが日本の未来を護るために幕末に疾走して今の日本があるのですね。

だから
欲しいものだけを観ればいいのですね。

龍馬も身分の違いで実力がある人が相応の仕事につくことが出来ない身分制度に疑問を持ち
誰もが自由に職業を選べる世界。自由に信仰し自由に学ぶことができる世界を夢見ていました。

いつも欲しいものだけを未来の中に見ることができれば
いつかそれは本当に見ることができるようになります。

偶然に意味を見出すから、望むような現実を創造しているのですね。

セレンディピティとは、偶然の中に必然を観る人だけが見つけることができる
未来の記憶なのかもしれません。

なんとかなるさじゃ なんともならない

結構昔の話になりますが・・・

【ナンクルナイサー】

という沖縄の言葉が流行った事があった。

宮里プロゴルファー3兄弟がテレビで
「ナンクルナイサー」と言っていて少し流行った事がある。

「なんとかなるさ」という意味ですが、これは沖縄の人だから使っていい言葉だと思います。

ご存じのように、沖縄は日本で唯一 地上戦が行われた場所です。

絶望的な状況の中で、死しか選択肢のないような状況の中で民間人が唯一
希望を持つために生きることを諦めないために生まれた言葉ではないかと私は思っています。詳しくは下記にて書いています。

自己メージとは人生の設計図が描かれているプログラム

私たちは当時の沖縄の人たちのような、死ぬ以外に選択肢がないような
状況下に置かれることは殆どありません。

「なんとかなるさじゃなんともならないなんとかするさ」

という言葉が好きです。

まあ、自分で作ったんですけど

この言葉は自分自身の中でも重要なマインド・セットになっています。

「何とかなるさは
何とかするさで 何とかなる」

私の中ではこの言葉は確信に近い位いに

自分で何とかすると思う事は、絶対に何とかなると
考えています。

なので、今まで絶体絶命のピンチに遭っても
切り抜けてこれましたし、これからも切り抜けていく
自信はあります。

初めから今のような強いマインド・セットは出来ていませんでした。

疑心悪鬼になって、何日も眠れない夜を過ごしたり
不眠不休で働き続けたてぶっ倒れたりしながらも
諦めなければ必ず何とかなるという事を
自分自身の体験として少しずつ培ってきたからこそ
そういう、確信ともいえるものが自分の中に出来てきたのだと思います。

何とかなるさと
受け流すのではなく

何とかするさとキッチリと受け止めて
投げ飛ばすという気概があれば

絶対に何とかなります。

自分で何とかすると考えない限り
何かが変わるという事はありません。

何とかするさと他人任せのような
事では何とか出来ることもできなくなると思います。

根性・気合いも必要な時はあると思います。

鼻水を垂らしながら、泣きながらでも
歯を食いしばって
やっとのことで何とかなった経験がある人は

本当にピンチな時には
目をバッチリと開けて、まっすぐに目をそむけずに
現実を見て立ち向かってゆくことができます。

何とかするという気持ちが、自分の能力をメガ・マックスにして
引き出してくれるのですね。

あーもう駄目だと
思った時から、実は本当の力が発揮される時です。

そこからが、本当の自分の力の見せ所です。

あーもう駄目だと思ったら

「さあ そろそろ本気出すか」と笑って思いっきり強がりましょう。

もし本当にどん底だったら、肝が据わって
腹の底から力がみなぎってきますからね。

肝が据わらず、どん底で力がみなぎらないのであれば
それは、どん底ではありません。

どん底に行く前に既に諦めちゃってるだけです。

大丈夫。
あなたならできます。